美術家  小林正樹
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母のこと

 

今日は仕事で雑用に追われ、あっというまに一日が過ぎてしまった。
でも私にとって特別な日。

 

四年前の今日。
私は病院の前で、夕方のどんより暗い霙混じりの空を呆然と見上げていた。

母は最期の一ヶ月半、モルヒネによる意識障害に陥った。
息子の私のことなんて忘却の彼方。
なのに、なにかあると父をしきりに呼んだ。
子供よりも夫だったのだ。

夫婦旅行で愛用していた鞄を病室で見つけるたびに、母は必死にそれを取るために起き上がろうともがいた。

父と一緒に我が家に帰りたかったのだろう。

 見合い結婚だった両親に恋愛感情なんてあるものかと、私はずっと訝しがっていたけれど、最後の最後に夫婦の絆というものを見せつけられた気がした。

もう私の生い立ちや幼い頃の話を聞くことが叶わないのは寂しかったけれど、ずっと寄り添って介護をしてきた父は最後に救われたのではないかと思う。

式後に父は「寝たきりでもなんでもいい。ただ、ただ、生きていてほしかったんだよ。」と小さく言った。
 

母はモルヒネが強くなっていく程、痛みとともにしがらみからも開放されて目を覚ましている短い時間、屈託の無い娘となった。

お兄ちゃん(母には三人兄がいた)と遊んだり、彼岸のお母さんに会ったり、鼻歌を歌ったり、何か美味しそうに食べるしぐさをしたり、ときには忙しそうに毛布のはしをつかんでは運針をしたり(まるで本当に針と糸があるかのように…)。
傍らで徹夜で付き添っている息子になんか目もくれず…
幼少の私は被服科出身である母の縫った服を着せられていたしセーターも手編みだった。昭和はまだ洋服が高価な時代だったのだ。そして子育ての合間に少しでも時間があれば編み物の内職をしたりパートに出たりといつもなにかしていないと気が済まない性格だった。農家育ちの昭和の娘はとても働き者だった。

 

意識障害は神様が最後に与えてくれた、私の知りえない母の人生を想像させてもらえるささやかなご褒美の時間だったのかもしれない。

 

母は最期、私が病室に到着するのを待っていてくれた。
一瞬意識が戻った気がして、耳元で「ありがとう」と囁いた。
家族が揃うと母は、一筋の涙をながし、
間もなく旅立った。

 

今年も命日が過ぎてゆく。

 

(画像は母の遺したスケッチブックより)

 

 

 

次は
霧の霊山に龍が登って。

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